宝くじ売り場から見える風景
宝くじを買ったことがあるだろうか?
ほとんどのひとは一度くらいは宝くじを買っているだろう。
それを買い続けるかどうかは人による。
高額当選(1億円以上)の経験があるものは数少ない。それでも高額当選を夢見て買い続ける人は多いだろう。
いつかは高額当選し億万長者になる夢をみるのは楽しい。今の仕事を辞め、海外旅行し、高級車を乗り回し、はては日本脱出の夢をみるのはなお楽しいだろう(1億円じゃ足りない?、じゃ10億円にしよう、夢見は自由だ)。東南アジア(マレーシア)で王族の暮らしをしよう。
目の前で威張り腐っている上司に辞表を叩きつけて、意地悪な同僚を尻目に、さっそうと職場を後にする。まるで映画のワンシーンを演じてる気分になる。そんな自己主演の映画を夢みるのも楽しいだろう(ついでだ、監督主演映画を1本つくろう。1億円でつくれるかもしれない)。
まさに、宝くじのもたらす夢見る夢のオンパレードだ。
観覧車に乗って次の名セリフを吐くのもいいだろう。
「~だれかがこんなこと言ってたぜ。
イタリアではボルジア家三十年間の戦火・恐怖・殺人・流血の
圧政の下で、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどの偉大な
ルネサンス文化を生んだ。
が、片やスイスはどうだ?
麗しい友愛精神の下、五百年に渡る民主主義と平和が
産み出したものは何だと思う?
『鳩時計』だとさ!~」(映画『第三の男』オーソン・ウェルズ)
むろん、ここで僕が強調したいのは、「ミケランジェロやダ・ヴィンチ」ではなく、「鳩時計」のほうである。五百年にも渡る平和は簡単にできるものではない。一人二人の天才より永遠の平和が必要なのだ。
それこそ、「宝くじが毎日買える平和」というものだ。
僕は10億円の宝くじが当たったら、1本の映画を作る。
題名は「ゴジラ・南海孤島の大決戦」である。
ある南の島の地下に眠っている核エネルギーに導かれてゴジラが上陸し、島を支配する軍事戦闘部隊と死闘を繰り広げ、軍事基地を破壊し、最後は、核エネルギーをすべて体内に吸収したゴジラが海に帰っていくというパニック・戦闘映画である。
島人は、軍事基地の跡地の台地に強大なゴジラの銅像を平和のシンボルとして建設し、島はそれから500年も平和であったとエンドロールを流すのだ。
なんだかすごいな、10億円でつくれるのかな、30億円は必要な気がする。
でも、夢見る夢は自由自在だよ!
三角食堂
とある町の三叉路の角地に小さな食堂がある。
二つの車道に囲まれた食堂は瓦屋根の二階建(一部が二階)の一階部分に大きな看板が掲げられている。
「三角食堂」
地形に由来するであろう食堂名ははシンプルで一直線(三角形)である。
・・・
その中に入るとテーブル席が六つある。
壁に掛かった大きな三角形の時計が三時を打っている。
メニューを見ると、三角おにぎりを始め、おでん、サンドイッチと三角形料理をはじめ、さらには三角ソバ、三角ステーキ、三角オムライスとすべてのメニューが三角形の形をした料理になっている。
食器もまた三角形で、三角お皿に、ごはん・汁椀も三角形である。コップも三角形である。
箸は先が三角形(先っぽが少し丸め)で、フォークも先が三つ又逆三角形でスプーンも丸みをおびた三角形である
備えられた調味料(コショー、醤油など)も三角形の器に入っている。
むろん、テーブルも三角形だった。三角地の頭に合わせてテーブル一つ、次の列はテーブルが二つ、そして最後の列はテーブルが三つと、三角形のピラミッド列となっている。
とすると、このテーブルは三人までしか腰掛けることができないのだ。
三角形の店内に合わせて空間をうまく活用するためにテーブルが三角形になったのだろう。椅子も三角形だ。しかし、それにしても料理品も三角形にしたのはどういうわけだろう。
店主は言う。
「料理とは『生もの』『火にかけたもの』『腐ったもの』に分類できるととフランスの哲学者は言っています。料理の三角形ですね。私の店はまさにその三角形をいろいろアレンジ(煮たり、焼いたり、燻したり)して出しているので、料理の形もまた三角形にして出したのです。その方が食べやすくおいしいですよ」
おむすび頭とおむすび体形の三角(みすみ)三郎さんは言った。
僕はさっそく、三角お皿に盛られた三角オムライスを三角スプーンで食べてみた。
それは、本当に食べやすくおいしかった。
・・・
・・・
僕はそんな白日夢を見た。
テーブル番号
男は一人でその店に入った。
渡された座席番号は44番。
その店は商品が回転しながら客の前に提示され、その商品を気に入った客が勝手に取っていいことになっている。または、タブレットに商品が提示され、注文画面を押すと商品が回転ラインに乗って客の前に来る、その時、商品画面が表示され音声で知らせてくれる。それをすばやく取る。
男は商品を取り損ねた。
お知らせの音声と画面を確認している間に商品は男の前をすっと通り過ぎて行った。
タイミングが悪いのか、次に注文した商品も取り逃がしてしまった。
そのつぎのもだ。三回目だ。
男は焦った。
これではいつまでたっても商品にありつけない。
男は考えた。
まず、目の前を回転していく商品を取る練習からはじめよう。
一品目をゲット。
二品目を取り上げた
三品目を無事奪取。
これで完璧だ。
男はそう思った。
これで自分の好きな商品が選べる。
男はタブレットの商品欄を開け、目当ての商品を選び注文した。
心を落ち着け、耳をすまし、目は回転するラインとタブレットの画面を同時に注視した。心は止水明鏡、耳はウサギの耳、目は出目金の目になって息を止めた。
時は流れ、静かに回転ラインに乗った商品が向こう側からヤッテくる。
五、四、三、あれっつ、音声は流れず画面も表示しない、二、一と商品は男の前を通りすぎ、離れた客がそれを取り上げた。
男はうなった。
これは難芸だ。釣り人以上の精神と技量がいる。
男は諦めた。
目の前をゆっくり流れていく商品を取り上げて満足した。
以上は、僕の友人の話である。
友人は言った。
「寿司を食べるなら寿司定食がいいいね」
そして、僕は思った。
44番とは孜々(しし(熱心に努めはげむ)空しのことであったのだと。
ペンが並ぶ
ペンが並んでいる。赤。青紫。緑。黒。
規則正しく並んでいるよに見えて、少し、右を見ているペン、左を見ているペン、あるいは隣のペンにもたれかかっているペンなど、長い間店頭に並び疲れているような感じのするペンの整列である。
後ろでは青緑と黄色がワイワイガヤガヤとなにやら騒がしく動き回っている。後方から押されて前列の右側の緑のペンが黒のペンにもたれかかって、その勢いで後ろの黒のペンが緑のペンの集団の中に紛れ込んだ。
大丈夫だろうか。後列の黒のペンの集団がその仲間のペンを取り戻すかのように勢いよく緑の集団にくってかかっている。
青緑のペン三本は仲間の二本を心配しながら、遠巻きにこわごわと、みんなから離れてたたずんでいる。
早くお客さんが買いに来て何本か買って引き抜いてくれたら、店員さんが来てまたきれいに並べてくれるのに、と左側に並んだ赤色系の集団は思っでるだろう。
売れるが勝ち。
でも、売れなくて居残るのもまた楽し。
かな?
だれも座らないベンチ
そこには使い古され年月のたった半分壊れかけたベンチがあった。
だれかが座ったことがあるのだろうか。
長いこと使われていないような気がする。
だれもこの背もたれの欠けたベンチには座らないのだろう。
そこへ、ひとりのおばあさんが来た。バスが来るのを待つのだろうが、チラッとベンチを見たがそのまま立ちながらバスを待っている。
おう、そこまれ嫌われたのか、悲しいねベンチ君。いくらなんでも疲れたら休んでくださいね。さびしそうなベンチ君のかわりに僕はそう思った。
それとも、ベンチ君は我関せずで、誰が座ろうが、座らなかろうが構わないのかもしれない。何年も人々から忘れ去られ、ベンチの座板も雨風のためとげとげになっていて、背もたれの板も剥がれ、鉄枠と座板だけでかろうじてベンチの形を保っている。
自分が、人が座るための椅子であることも忘れていて、バス停の案内板と思っているのかもしれない。
でもよくみると、鉄枠のスタイルはなかなかシュンとしていて、色褪せてはいるが細身のモダンな北欧風ベンチにも見えてくる。人々はその気取ったベンチ君の雰囲気に恐れをなして座るのを遠慮しているのだろうか。
人が、バスが来るまでの長時間を気楽に待っていられるよう置かれたはずのベンチが、いま、風景の中で奇妙なスタイルの造形物になっている。
よく見ると、ベンチの後ろに沖縄独特の石敢當のお守りがブロック塀に埋め込まれている。「石敢當」は中国伝来で、角地にぶつかると反対側の家を襲う魔物を封じ込める、魔よけのためのお守りを意味する。
すると、このベンチ君は災いを防ぐため、「マジムン(魔物)」を歓待・慰撫するためのお守り椅子なのかもしれない。「石敢當」に粉砕されそうな「マジムン」をやわらかく迎えて休ませ(座らせ)、そのパワー(邪気)を和ませる役目を果たしているのかもしれない。
それだからこそ、ベンチ君のその神々しさに感心して、人々は.畏敬の念から敬して遠ざかっているのだろう。
僕は、そう理解し納得した。
ベンチ君お疲れさん!