ショットなストーリー

一枚の写真から浮かぶショートストーリー

だれも座らないベンチ

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あるバス停のベンチ

 そこには使い古され年月のたった半分壊れかけたベンチがあった。

 だれかが座ったことがあるのだろうか。

 長いこと使われていないような気がする。

 だれもこの背もたれの欠けたベンチには座らないのだろう。

 そこへ、ひとりのおばあさんが来た。バスが来るのを待つのだろうが、チラッとベンチを見たがそのまま立ちながらバスを待っている。

 おう、そこまれ嫌われたのか、悲しいねベンチ君。いくらなんでも疲れたら休んでくださいね。さびしそうなベンチ君のかわりに僕はそう思った。

 それとも、ベンチ君は我関せずで、誰が座ろうが、座らなかろうが構わないのかもしれない。何年も人々から忘れ去られ、ベンチの座板も雨風のためとげとげになっていて、背もたれの板も剥がれ、鉄枠と座板だけでかろうじてベンチの形を保っている。

 自分が、人が座るための椅子であることも忘れていて、バス停の案内板と思っているのかもしれない。

 でもよくみると、鉄枠のスタイルはなかなかシュンとしていて、色褪せてはいるが細身のモダンな北欧風ベンチにも見えてくる。人々はその気取ったベンチ君の雰囲気に恐れをなして座るのを遠慮しているのだろうか。

 人が、バスが来るまでの長時間を気楽に待っていられるよう置かれたはずのベンチが、いま、風景の中で奇妙なスタイルの造形物になっている。

 よく見ると、ベンチの後ろに沖縄独特の石敢當のお守りがブロック塀に埋め込まれている。「石敢當」は中国伝来で、角地にぶつかると反対側の家を襲う魔物を封じ込める、魔よけのためのお守りを意味する。

 すると、このベンチ君は災いを防ぐため、「マジムン(魔物)」を歓待・慰撫するためのお守り椅子なのかもしれない。「石敢當」に粉砕されそうな「マジムン」をやわらかく迎えて休ませ(座らせ)、そのパワー(邪気)を和ませる役目を果たしているのかもしれない。

 それだからこそ、ベンチ君のその神々しさに感心して、人々は.畏敬の念から敬して遠ざかっているのだろう。

 僕は、そう理解し納得した。

 ベンチ君お疲れさん!