見えざる壁
増殖するタイル壁が目の前をおう。
Kは唸った。
「俺はタイル張りの壁に閉じ込められていたのか」
・・・
Kは会社に行くためにいつものようにバスに乗った。バスは少し遅れてバス亭に着き、ドアが開いた。KはICカードを読み取り機にピット押しバスに乗り込んだ。バスのドアが閉まった。
やはり、少し遅れてバスはバス停に着いた。
Kは会社への道をいつものように歩いている(少し早歩き)。今日は5分遅れている。でも大丈夫、少し早く歩けば時間内に着ける(だろう)。
いつもはバス停から会社へは真っすぐに行く道順だ。
その道は右側に緑豊かな畑があり、Kの好きな花がすっと鼻をくすぐる。途中の公園には日向ぼっこするネコがいたり、さわやかな微風が朝の緊張した気持ちをほぐしてくれる。
だが、今日は少し遅れたから、真っすぐ歩くとすぐ左に曲がって、また右に曲がって、さらに左に曲がり人家の多い住宅街を通り抜けて会社に行く。
左曲がりの角の家の犬はいつもウルさい。人が通るたびに吠える。馬鹿犬だから、住人もおかしな人間だろうとKは考える。会ったことはないが、犬の管理もできない気の利かない人間に違いない。
だから、ここからは行きたくなかったけど、3分だけ早く行けるから仕方がない。
右曲がりの角の家は朝早くからおじいさんが門の前で椅子に座っていて、歩いている人に声を掛ける。返事をしないと怒るのでいやだ。
なにやらKの会社のもと重役だった(らしい)。いやにいばっているので、ついへいこらしてしまう。
今はちょうど8時、それまがり角だ、会うぞ、声をかけられるぞ、いやだいやだと思いながら歩いている。
だが今日は、おじいさんは居なかった。椅子もなかった。
そういえば、さっきの曲がり角にも犬がいなかった。静かで不思議に思っていた。今日は、幸いだ、二つもいいことが続いたのだから、今日一日うまくいくだろう。Kのホホがゆるむ。
次の曲がり角の家は小さな子供たちが朝からうるさく、その子供を叱る若い母親の怒鳴り声が頭に響き憂鬱になる。
でも今日はいやに静かだ。子供たちが病気でもしているのだろうか。ほんとに今日は何かいいことがあるかも知れない。
Kの歩く足も軽くスキップしたくなる程だ。たまに5分遅れるのもいいことがあるものだとKは思った。
Kはホットしながら角地を曲がり切った。
目の前には大きな建物、目指すべき会社が見える。会社の入り口周辺には出勤前の人々が並び、足早に歩いている。いつもの風景だ。少しの異変もない。
Kは少し小走りに歩いた。8時30分の出勤時刻には20分の余裕がある。いつもの通りだ。これで、充分間に合う。朝の早い課長は、少しでも遅れると社員をギョロリと睨む。目が怖い。睨まれたら一日がうっとうしい。
Kは安心した。
ガラス張りの自動ドアの前に立った。いつもはドアがスッと開いて中に入ると閉まる。だが、どうしたのだろう。なかなかドアが開かない。センサーが壊れているのか。隣の自動ドアは普通に開閉しているのにKの前の自動ドアだけが開かない。
Kは自動ドアが壊れたのだろうと思い、隣の自動ドアに移った。すると、後続の出勤者は気にもせず、その開かなかったはずのドアの前に立ち、スッと中に入っていった。
だが、Kの前の自動ドアは閉まったままだ。Kがドアの前に立つと開かず、他の人が立つといつものように開閉する。
どういうことだ。Kは焦った。こんなことがあるのだろうか。この自動ドアは人を選別して開閉するのか。Kの前の自動ドアは閉まったまま、後に列ができた。
しかたなくKはドアから離れた。するとどうだろう。今までうんともすんとも言わなかったドアが自然に開いて人々の出入りに応じで開閉している。
なんで、俺だけが建物の中に入れないのか。Kは焦りよりも恐怖を感じた。俺はこの建物に嫌われている。
昨日までなにも考えず自動ドアの前を通り過ぎていた。目の前のドアが自動ドアで、自動に開閉しているのさえ気にしていなかった。前に立てば自然に開いて、通り過ぎれば自然に閉まる。ただそれだけだった。
それが、どうしたことか。今日は自動ドアは動かず、Kは建物の外に残されたままだ。
Kは手動の開閉ドアの方に移動した。手でドアを開けようとするが開かない。ガラス越しに中を見るが、鍵がかかっているようには見えない。
Kはもとの自動ドアの方に移動した。
他の出勤者と同時に入ったらどうだろう。Kはそう考えた。
Kは少し待って端の方に立ち、他の出勤者が自動ドアの前を通り過ぎる瞬間滑り込んだ。Kが入れたと思った瞬間、閉まるドアに弾き飛ばされた。
Kはビックリした。俺は本当に会社の中に入れないのか。
Kはもう一度、開閉式のドアに向かって、中にいる警備員さんに合図するがなかなか気がつかない。無視されているようにもみえる。
しかたなく、Kはどのようにしたら会社に入れるのか、と頭をフル回転させた。
Kの頭に浮かんだのは地下2階の駐車場で、上がる出入り口が早朝は開けっ放しだと思い出した。
Kは走った。出勤者の流れに逆らって地下2階の駐車場に向かった。かなりの距離だ。5分ほど走った。
幸い、そこは業者の出入りのため朝はいつも早めに開いていた。Kは無事会社に入ることができた。自分の職場に急いて階段を上がっていった。
Kの課は2階にあり、オープン式の仕切りなし、ドアなしの部屋なので入るのに心配はなかった。
定刻5分前だった。課長は早朝会議でいない。ラッキー!
だがKの心配は続いている。
ドアのある部屋が全部開けられないとしたらどうする。社長室に呼ばれたらどうしよう。あそこのドアは秘書が開けてはくれないだろうし、入る人がノックして自分で開けて入らなければならない。
社長室に呼ばれたなら、こちらからノックして開けてくれるまで外で待つしかない。変にいばっているように見られるが、恐れ多いという顔をして待てば、そのうち、秘書が開けてくれるだろう。でも、まあ、社長室に呼ばれたことなど一度もないから心配する必要もない。
でも、部長室も開けっ放しじゃない場合もある。それはそれで、その時考えよう。Kは心を落ち着ける。
まず、この建物で、ドアがあり、自分で開け閉めしなければならない部屋には近づかないようにするしかない。
エレベーターも使えないだろう。間違って乗ってしまって、次の人が乗るまで閉じ込められたままなんてみじめだからな。
最上階までは13階あるが何とかなるだろう。
会議の場合の会議室は、かならず誰かがいるだろうから、その人のすぐ後ろで開閉を待って滑り込めばいいか。
Kは会社内の建物の構造を頭に入れ、ドアのある危険地帯をチェックした。
食堂はオープンに入れる。
トイレはどうだろう。
トイレは、小の方は出入りは自由だからOK、大の方は開閉式のドア付きだ。上部が開いているので、イザというときは上から忍び込むしかない。人がいない時に使えばいい。「よじ登り作戦」と名付けよう。
Kの気持ちは少し落ち着いた。
仕事を終えるまでの9時間、何事もないよう願うしかない。
ふとKの頭に浮かんだのは、外回りの場合、会社の車で訪問先に行くのだが、その車のドアは誰が開けるのだろう。
日程表を確認すると、今日は一件外回りの仕事があった。相棒のTと一緒だ。少しはホッとした。なんやかんや言ってTにドアを開けてもらおう、運転も頼もう。
そうだ、静電気が起きて感電したと嘘を言おう。でも下りるときはどうしよう。それもTに開けて貰うしかないが、どう言ったらいいだろう。今のうちに右側の手を包帯巻きにしておこう。火傷したとでも言えばなんとか信じてもらえるだろう。
やはり、下りるときは左手を使うので左手も火傷にしておくか。変な包帯をして顔まで巻いて透明人間のふりをした方がいいかもしれない。
Kは仕事に集中するふりをしてあれこれ考えていた。俺の異変の原因は何だろう。なにか悪いことをしたのだろうか。なにも思いつかない。誰かが先回りして、ドアのある部屋の鍵を閉めているとは考えられない。実際、自動ドアは俺以外の場合は開いて閉まった。俺だけが入れなかった。
原因は不明だが状況は明確だから、対策はシンプルである。
ドアのある部屋をどのように潜り抜けるかだ。ドアを開ける状況に出会わないことが第一だ。ドアを開けなければいけない場合は、誰か近くの人間の助けが必要になる。うまく、言葉巧みにドアを開けさせるしかない。
Kの頭は会社内のドアのある部屋を思い浮かべた。今日一日をクリアできれば、明日以降の難関はその応用で解決できるだろうと予想した。
まるで「迷路ゲーム」のキャラクターのようだ。
Kは自分がゲームの中の果敢な状況をクリアするヒーローになったような錯覚を覚えた。
「よっし!全関門突破だ!」
Kは意気揚々と心の中で奇声を上げた。
すると、隣のTが幽霊でも見ような顔でKを見ている。Kはしまった、心の意気込みが声に出たか、とニタリと笑ってごまかした。
そろそろ、昼休み時間だ。今日は会社内をうろつくのはやめて、業者持ち込みの弁当ですまそう。
Kは注文した弁当を食べた。気疲れしたので椅子にもたれたまま昼寝をした。
午後の仕事が始まる。さっそく、外回りに出ようとすると、お客様の都合でキャンセルになった。幸いだ。一つ悩みが解決した。
「透明人間作戦」は中止だ。
あとは、帰り時間を待つだけだ。今日は一日、机にへばり付いていよう。
すると、全然予期してなかったことが起こった。
なんと、Kは社長室に寄ばれているという。Kは覚えのない用で社長室に行くという。それも、課長も一緒である。まあ、一安心だ。課長がドアを開けるだろうが、閉めるときはどうする。Kは半分だけ心配した。社長室は3階にある。
社長室に行くと、もうすでに大勢の社員がそれぞれ課長同伴で社長室で待っていた。ドアは開いたままだった。入社10年勤続の表彰だとのことだった。
そういえば前に聞いたことがあった。Kは今思い出した。
Kは緊張した面持ちで社長以下お偉いさんの挨拶を聞き、社員それぞれが表彰状を貰った。
一件落着。何もなくドアを素通りした。「社長室事件」完了。
Kは自分の席に戻って一息ついた。社長室に行く途中、色々な部屋があり、それらはドアで閉められていたが、Kは改めて会社は危険区域だらけだと実感した。
Kは行ったことのある部屋もあるが、覗いてみたことさえない部屋もたくさんあることを知って驚いている。Kはこの会社は部屋だらけだったのだと改めて認識した。
ゾーン別に危険地帯のレベルを区分けした方がいいかもしれない。
社長室が、Aレベルでレッドゾーン。秘書の手助け必要地帯。
部長室が、Bレベルでイエローゾーン、トイレはBレベル。誰か近くの人援助必要or壁よじ登り地帯
会議室はCレベルで、ライトイエローゾーン。その他の部屋同じ。誰か援助者必要地帯。
仕切りなし部屋はもちろんDレベルでグリーンゾーン。フリー安全地帯。
エレベーターはAAレベルでヘルゾーン(地獄地帯)だ。乗る人時間待ち地帯。
そうだ、一人で乗る車はAAAレベルでデリンジャラスゾーンだ。
一人では車に乗ることさえできず、乗れたとしても下りられない運命の危険地帯である。一人で1日中車の前で(中で)祈っているしかないだろう。完全NG地帯。知らない人頼り時間帯だ。
「祈りのゾーン」とも名付けよう。
・・・
その後なにもなく一日が過ぎていった。今日はなんと平和な心安らぐ一日だっただろうか。Kは出勤時の大事件も忘れて、ひさかたぶりに何もない一日の大切さを噛み締めた。
そうだ、今日一日(実時間8時間)は何と生きているという充実(会社に入れただけで)を味わうことのできた一日だった。
Kは忘れていたもう一つの心配事を思い出した。
地下のごみ収集室は普段は開いているいるが、たまに閉まっている時がある。少し心配だ。
今日は年に数回ある掃除当番日で、集めたゴミを地下の収集室に持っていかなければならない。Tに頼みたいのだが、Tは午後の外回りが無いと分かった時点で早退していた。
Kは人見知りする方で職場の仲間らから何となく仲間はずれにされていて、今さら頼めるような職場仲間はいない。いつも親切なYさんも今日は休みだった。
午後5時15分になった。退社時間15分前。
金曜日は会社一斉の簡易清掃日だ。週に一度、職員全員で職場内清掃をする。
仕方なく、Kは集めたチリ袋を抱えて地下に降りた。
幸い、ゴミ収集室のドアは開いていた。部屋の中はもうすでに集められたゴミ袋でいっぱいだった。Kは奥の開いている部分にゴミ袋を置いて出ようととした。
するとどうしたのだろう。いつもは遅い時間に清掃員が来てドアを閉めるのだが、今日は早めに来ている。Kは慌てて外に出ようとしたが、間に合わなかった。間一髪、ギイッーとドアが閉められた。
Tは急いで中からドアを叩いたので、清掃員がビックリしてドアを開けてくれた。ドアを閉めただけだ、なんでそんなに大げさに騒ぐのか分からないとの顔をするので、Tは清掃員に鍵を掛けられたのかと心配したと言って取り繕ってごまかした。
ゴミ収集室はBレベルでイエローゾーンだ。
Kは仕事部屋に戻り帰り支度をした。
ほかの仲間はもうすでに帰る準備を終えている。金曜日なので、みんなでどこかに飲みに行こうと誘い合っている。
そうだ今日は「花金」だった。Kを誘う人はいない。Tがいればなんとなく仲間に加わることができるのだが、Kも今日一日はどうなるか心配で飲みに行こうとの気も起らない。
課長も含め早々と社員は出払ってしまった。
Kは少し焦った。会社自体が月一度のノー残業デーなので早めに閉まる。
午後6時には閉まる(だろう)。Kは突然そのことを思い出した。
間違って、退社口が閉められたらたまったものじゃない。Kは速足で出口に向かった。
いつもの出入り口ではなく、遅くまで開いている警備室の近くにある出口に向かった。
それは地下1階にある。Kは階段を使って下りた。階段のドアを閉めようとする警備員を何とか説得して開けさせ階段口に出た。もう、上に行くにはエレベータしか使えない。Kはどうせ出口から出られると思いそのまま階段を下りた。
いつもは開けっ放しのドアは今日は閉まっている。警備室には警備員もいない。退社時間なので周辺を見回っているのだろうか。
Kはいらいらしながら、警備員が戻るのを待っている。あるいは、エレベーターから退社する社員が出てくるかもしれないとそわそわしながら出口で待っていた。
5分、10分、15分経っても誰も降りてこない。警備員も警備室に戻ってこない。
Kはしかたなく、ほかに出口がないか建物の反対側の方向へ歩き出した。西側にも出入り口(開閉式)があり、そこは外来者用駐車場につながっていて、うまくいけば外に出られるはずだ。Kは何度か行ったことのある西側出口に向かった。
長い廊下を一分ほど歩いた。
やはり西側出口は閉まっていた。外に警備員がいるようにも見えない。
Kはもとの警備室側の出口に戻ろうとするが、すぐ横に地下2階西側出口があったのを思い出した。そこは、崖下の団地の方に行ける出口があったはずだ。めったに使ったことはないが、たまに団地側の一般市民が会社の食堂を使うとき出入りしやすいように開いている時期があった。
Kは階段を下りて開いているかどうか確かめたかった。K は階段を下りた。なんと、そこはタイル張りの壁で覆われていた。
Kは思い出した。数年前、台風時の豪雨で崖下との境目が土砂崩れして、かなり危険になったので、その出入り口は閉鎖されたのだった。
Kは諦めて階段を戻ろうとすると、既に地下1階へ上がる階段のドアが閉められていた。ついさっきまで開いたのに、とKは焦った。多分見回りの警備員が危ないとドアを閉めなおしたのだろう。
Kがドアを叩いて叫ぶが誰も答えない。何度も、何度もドアを叩き続けるが反応はなかった。Kは一時間以上ドアの前に立ち続けた。
ドアノブを押したり引いたりしたが、びくともしない。そのうちKは疲れ果て、ドアノブから手が滑り落ちそのままコンクリート地に倒れこんだ。
Kはその閉ざされた空間すべてがタイル張りの壁に見えた。Kには四週のタイル壁が押し寄せてくるように感じられた。
Kはそのまま階段を滑り落ちた。
・・・
翌日、Kは警備員に発見されたが、意識がはっきりせず、なぜか「壁が、壁が、俺を、俺を・・・ゲームオーバー・・・」と訳のわからない言葉を発していた。
Kは白目を剥き出し、口からは白い泡を吹いていた。